バッド・ルーテナント

あらすじ
アベル・フェラーラ監督の『バッド・ルーテナント』は、1992年の犯罪ドラマ映画で、ハーヴェイ・カイテル演じる道徳的に堕落した警部補、マイケル・「マイク」・ボイルの物語を描いています。マイクはニューヨーク市警の警官であり、ヘロインとギャンブルへの重度の依存症に苦しんでいます。ある運命的な日、彼は若い修道女のレイプ事件に遭遇し、それが彼を贖罪の道へと導くように見えます。 映画はマイクの典型的な一日から始まり、彼はヘロインを注射し、高額なポーカーゲームに興じています。これらのシーンは、マイクが自身の深刻な依存症に対処しようと必死になっている様子を描いています。彼はまた、犯人を追跡する際に冷酷で狡猾であり、目的を達成するために型破りな方法を用いることも示されています。 しかし、マイクの人生は、若い修道女、シスター・ギャロの残忍なレイプ事件の捜査を命じられたときに転換期を迎えます。事件を深く掘り下げるにつれて、彼は犯人を見つけ出し、正義の裁きを受けさせることに感情的に関わるようになります。この新たな目的意識がマイクの中に希望の光を灯し、彼は自身の依存症と、これまで送ってきた堕落したライフスタイルを負債と見なし始めます。 努力にもかかわらず、マイクは冷静さを保つのが難しいと感じています。特に、命にかかわるような状況に直面し、重要な決断を迫られたときにはなおさらです。この瞬間は映画の重要な転換点であり、マイクは自分自身を贖い、思いやりと共感を示す機会を得ます。しかし、物事がマイクにとって好転し始めた矢先、彼は昔の悪い習慣に戻り、依存症に苦しみ、警官としての誠実さを損ないます。 マイクの経験を通して、フェラーラは依存症、贖罪、そして善と悪の曖昧な境界線というテーマを探求しています。マイクの破滅への螺旋は、依存症の周期的な性質と、それが個人をどのように蝕むかについての解説として役立ちます。一方、彼が変化し、赦しを求める試みは、贖罪の可能性と、手遅れになることはないのかという疑問を提起します。 この映画の最も印象的な点は、マイクの葛藤を生々しく、容赦なく描いていることです。カイテルの演技は圧巻で、身振り手振り、表情、そしてセリフを通して、キャラクターの脆弱性と絶望感を伝えています。フェラーラの演出も同様に衝撃的で、長回しと観察的な映画製作を通じて、観客をマイクの世界に没入させます。 一方、シスター・ギャロというキャラクターは、マイクの内省と贖罪の試みの触媒として機能します。彼女のレイプは単なる犯罪ではなく、マイクが共犯関係にある、より大きな構造的な問題の症状です。彼女のキャラクターを通して、フェラーラはカトリック教会と社会制度が犯罪と虐待をどのように助長し、永続させているかを批判しています。 映画のトーンは、厳しく、容赦なく、そしてしばしば不穏であり、マイクの世界の荒涼さを捉えています。しかし、その表面の下には、マイクが依存症と、彼を取り巻く道徳的荒廃と格闘する中で、希望と人間性が感じられます。撮影も同様に印象的で、フェラーラはニューヨークの荒れた路上や薄汚いバーを利用して、不吉さと絶望感を醸し出しています。 結局のところ、『バッド・ルーテナント』は、依存症と贖罪を生々しく容赦なく描いた作品であり、安易な解決や道徳的な確信を拒否しています。フェラーラの演出とカイテルの演技は、人間の複雑さを伝える上での達人であり、観客にマイクのキャラクターの本質と物語の中心にある道徳について熟考させます。
レビュー
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